初めての外国「ペルー」

1971年7月23日(40年前)、24歳の私は羽田空港で緊張感と期待感に浸りながら一人で イミグレーションに向かっていた。リマ(ペルー)行きの飛行機(Varig便)に乗るためである。

緊張感は海外しかも地球の裏側まで行くことであり、期待は勿論海外へ行く、未知の国に行くということである。 当時、為替レートは1ドル=360円であり、大学出の初任給が4万円(1970年)であったので、 個人で海外旅行をする人は稀だった。

当時の状況

パスポート

最初のパスポートは取得年月日が1971年4月23日で番号はE110074である。 古いので現在の物に比べて桁数が少ない。現在はアルファベットが2桁で数字が8桁となっている。 紺色でサイズが縦15cm横9.5cmと最近の物より大きい。 このパスポートは一次旅券といって有効期限が無く、帰国するまで有効という摩訶不思議な物であった。 何十年も経てば本人との照合に役立たないのではないか? それに加えて、パスポート取得から6ヶ月以内に出国しないと失効するという、 これもわけの分からない制限があった。 外貨事情が悪かったので出来るだけ海外旅行者を少なくしようという意図があったのかもしれない。

Passport01

更に、更にである。私のパスポートには渡航可能な国が、 アメリカ・メキシコ・ペルーの3カ国という制限が付いていた。 しかし私はこのパスポートで南米一周旅行をしたのです。 各国のイミグレーションの役人はこのような制限の付いたパスポートの存在を知らなかったのかもしれないし、 Passport02 外国人を自国に入れるか入れないかは自分で決めるということだったかもしれない。 私もこの渡航先制限を全く気にしていなかったのも事実である。
因みに2冊目のパスポート(1974.5.23ペルー発行)の渡航可能の国は、 北朝鮮を除く全ての国となっていた。3年間でこんなに状況が変わるものか?  確かにこの3年間の日本経済の発展は目を見張る物があったが…

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ビザ

私はペルー行きの片道切符しか買えなかったので、 リマのUさんからCarta de Garanteia(保証状)を送ってもらい、 それを持ってペルー領事館に行きビザを発行してもらった。

Andes01

ペルーアンデス・ワンドイ峰・南峰

外貨持ち出し枠

当時の対ドルレートは1ドル=360円と超円安であり、外貨持ち出し枠は500ドル/人ではなかったか。 私が申請して持ち出したのは390ドルであった。 なんて少ないと思われるかもしれないが、邦貨換算すると14万となり当時としては大金であった。
※ 1ドル=360円のレートは園の一周が360度なのでこうなったという説があるが、間違いである。

航空券

羽田ーリマ間は片道で、241,950円であった。私が日立マクセルに入社した時の初任給が4万円だったので、 その6か月分ということになる。 超円高の現在では海外旅行は高い物ではなくなった、最近の若い人が羨ましい。

イエローカード

イエローカードといえば最近はもっぱらサッカーの警告を思い浮かべるが、 これは伝染病の予防注射の証明書である。 当時は南米に行くには天然痘・黄熱病などの予防注射をしなければならなかった。
このカードが茶色っぽい黄色だったので、この名前が付いたのであろう。

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ペルーには通算6年以上も住んだので、語ることはいくらでもある。

天野博物館に勤めていた頃

Lima_city

私が働いていた天野博物館(リマ・ミラフローレス)

天野博物館とは天野芳太郎という日本人の方が私財を投げ打って建てた博物館です。 是非そのH.P.を御覧頂きたいと思います。
仕事の内容は、 文部省のCasa de la Culturra(文化庁)に資料提出。 土器、織物の記録 発見場所及び日時、所属する文化、その他を添付しその写真を文化庁に提出 リマは緯度が低く紫外線が強いので、写真は午前中に撮った。 来館者の案内  案内していて一番面白いのはアメリカ人である、何故なら常にジョークを言うから。 チムー時代の土器は大体黒いのだが、肺の形の土器を見て「こいつはヘビースモーカーだったに違いない」なんてジョークをかます。 研究者その他のアテンド  博物館に来るのは単に見学者だけではない。日本からアンデス文明の研究に来る人もいれば、ブラジルから展示物の写真を撮りに来るカメラマンもいた。  イレブンPMの藤本儀一さんを案内したことがあるが、多分向こうは覚えてはいないだろう。名前は忘れたが時事通信の人もアテンドした。

住居・食事

天野博物館の裏に2DKの家があった。私の前にはMさんというアンデス文明の研究者が夫婦で住んでいたらしい。私にはもったいない住居だった。 朝御飯は天野家の皆さんと一緒にとっていたし、お客さんがある時は夕食も一緒だった。 天野家には美味しいピスコがあるので、夕食はとても楽しみだった。

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夜間スペイン語学校で勉強

学校はInstituto Cultural Peruano Norteamericanoといい、アメリカ大使館の肝いりで出来たスペイン語学校である。教科書は英語とスペイン語の対訳で書いてあった。
1年コースを取り勉強した。同級生はオランダ人、アメリカ人2人、ドイツ人(女)1人日本人が私を含めて4人。時々授業が終わって皆で一緒にビールを飲みに行ったが、その時の共通語はスペイン語である。
クラスでは発音と文法に関しては日本人が圧倒的に上手だった。スペイン語の母音は日本語の、あ・い・う・え・お、に非常に近く、日本人向きだった。欧米の言語には母音が単純でなく沢山あり、どうしても発音が汚くなる。文法に関して日本人は大得意である。

…が、しかししかしである、喋る段になると形勢は一気に逆転する。欧米組みは発音・文法お構い無しに喋りまくるのだが、日本人は文法的に正しく話そうとするのか言葉少なになってしまう。特にフリートーキングの時間になると欧米組の独擅場となる。 しかし、ビアホールなどで飲みながら話をすると、酔うほどに日本人組も話をするようになってくる。

スペイン語を或る程度話せるようになると、徐々にクラスの生徒数は減少していく。現在形・過去形・現在完了形等をマスターすれば、取り敢えず日常生活にあまり支障はない。
従って仮定法の勉強の時には、人数が不足してクラスが消滅しそうになった。しかし、折角ここまで勉強したのだから最後までやろうということで、一番暇のある私が音頭を取って日本人をかき集めたが、それでも1人足りない。仕方なく皆割増料金を払って何とかクラスを維持し、卒業まで漕ぎ着けた。

この1年間は非常に良く勉強した。スペイン語の必要に迫られ必死になっていたのです。勿論予習・復習をしたのは言うまでもない。大学では殆ど講義に出席せず試験前に少しだけ勉強していたこの私が…である。


言葉について(スペイン語を話す連中の言い分)
英語    ビジネスで話す言葉
フランス語 恋人と語らう言葉
スペイン語 神と話す言葉
ドイツ語  ロバと話す言葉 (ドイツ人の方々、申し訳ありません、私が言っているのではないのです。)

ところで日本語はどうなんだろう?[寿司を食べるとき話す言葉?]

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音楽

我々日本人が、当時流行っていたビアホール「ババリア」に行くと、よく「上を向いて歩こう」が流れてきた。音程も少しおかしいし、フレーズが抜けているところもある。が…日本人へのサービスのつもりでピアニストが弾いてくれたのだろうから文句は言えない。

その頃、世界的に知られていた日本の歌は正にこれだけ。 この歌を歌った坂本九はJALの御巣鷹山墜落事故で死んでしまったのですが、その時私は駐在員でリマにいた。
日系人の間ではかの"若大将"加山雄三の歌が大流行だった。よく歌われていた曲は、「君と何時までも」と「夜空の星」で、日本の数年遅れという感じだ。スペイン語版もあったというよりそちらが主流であった。「君と何時までも」はムーディなのでダンスの時にもよく演奏されており、結婚式の歌の定番にもなっていた。
私も「夜空の星」のスペイン語の歌詞の一部を未だに覚えている。

ペルーでこれらの曲を歌っていたのはドルトン市川という日系の青年で、彼は日系人女性の間では大スターだった。

ディスコの話

リマではディスコが流行っていて私も時々行った。大体日系人或いは日本人と一緒だったが、たまにはペルー人といったこともある。
当時南米ではカルロス・サンタナが絶大な人気を誇っており、ペルーもその例にもれずディスコでも彼の曲"Samba pa Ti", "Oye Como Va"などがしょっちゅうかかっていた。
若者が圧倒的に多いが、中には中年のおじさんと若い女という組み合わせもあった。我々は怪しいと思っていたのだが、どうも不倫の逢引にもディスコは使われていたようだ。ここで踊って盛り上がりしかるべきところに行くのだろう。そういえば"Samba pa Ti"なんて曲はチークダンス(古い!)で盛り上がるにはもってこいの曲である。

日本映画

見た覚えの有るのは、勝新太郎の「座頭市」若山富三郎の「子連れ狼」石原裕次郎の「影狩り」
日本映画ではないが、アラン・ドロン、チャールズ・ブロンソン三船敏郎主演の「ザ・レッド・サン」などである。 座頭市には(Espadachin Ciego)盲目の剣豪というサブタイトルがついていた。 銃の打ち合いシーンには見慣れていたペルー人だが、刀で切る或いは手裏剣を投げるのが珍しかったのかこれらは結構人気が有った。

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リマ駐在員時代に、ペルー人(南米人?)気質をみた

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リマ旧市内・貴族の館

おおらかさ

私は1971年にペルーに初めて行ったのですが、当時のペルーの食生活は日本より圧倒的に上だったと思う。 パーティーではジョニ黒、ジョニ赤、オールドパーなどが供されていたし、 食べ物も肉、魚そして野菜とふんだんに有った。

当時リマでは毎週金曜日どこかの家で誕生会などのパーティー(Fiesta)が催されていた。 単身で金はないが暇は腐るほどあった私は、良くそのパーティーに参加した。
直接の知り合いでなくても友人の友人ということで連れて行ってもらったのである。 日系人の家庭が多かったが、行って自己紹介で日本から来た日本人だというと 常に大歓迎されて追い返されるということは皆無であったし、又、すぐに友達が出来た。 これがペルー人社会のオープンなところであろう。

しかし、このおおらかさが裏返せば時にはいい加減さに繋がることがある。 よく知られたことだが、ラテン系の人々は時間にルーズである。約束の時間を守らない。 修理工を頼んでも約束の時間に来ない。遅れてくるのは良い方で、その日に来ないこともある。 彼らはこのことを「Hora Peruana(ペルー時間)」と呼ぶ。

本当に時間厳守が必要な場合は「Hora Inglesa(イギリス時間)」と念を押す。 社長交代のパーティーを例に挙げると、8時をスタート時間とすると、 8時に会場にいるのは日本人社員だけ。9時ごろからぼちぼち客が来て、 10時ごろから盛り上がる。大臣・次官など偉い奴ほど遅れてやってくる。

逆に他人のお宅に訪問する時は、必ず遅れて行かなくてはならない。 定時に着くと先方の準備がまだ出来ていないのだ。早く訪れるなんてもってのほか!

彼らの言い分、「現代人は時間に支配されているが、我々は時間を支配している」

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アミーゴ第一主義(友達を大事にする)

① ミゲールの話
会社には最初はリマの生活に慣れるまで単身赴任というルールがあった。 生活に慣れてから家族を呼ぶということだ。 私が家族を呼ぶために家を探しているということを知った友人ミゲールは、 本当に毎日曜日新聞と赤鉛筆を持って私を訪ねてきた。新聞に不動産情報が載っており、 それから候補の家を赤鉛筆でマークして、訪問するわけである。
時には「女の目から見ることも必要だ」ということで奥さんを連れてきたこともある。 彼は取引先の偉いさんだったがなぜかうまが合い友達になったのだが、これ程まで親身になってくれるとは。
② チョイの話
機械や自動車の修理工場を経営しているチョイという中国系の友人がいた。 我が家に招待した時気が合い友達となった。 (高級レストランに招待するより自宅に招待するほうが圧倒的に親しくなれる)
私の車のボンネットに傷が付いたので彼に修理を依頼したところ、 すぐに社長である彼が代車(スズキジムニー)を運転してきて、私の車(クラウン)を持っていった。 3日後には修理された車を彼が届けてくれた。「代金はいくらだ?」と聞くと「何のことだ」という。
又、水を二階に上げるポンプが故障した時も彼に修理を依頼した。 彼自身が部下を連れてきて直接指揮をとり修理をしてくれたのだが、その時も一切料金を受け取らなかった。 「アミーゴだろ!」ということか。

Machu Picchu

マチュピチュの全景で、観光客が全くいない無人風景です。
どうやって撮影したのか? 不思議な無人風景の写真です。

③ アルトゥロの話
アルトゥロはFAMIAという配電盤など電気機器を作る会社の社長であった。 ある時鉱山で緊急に配電盤が必要となった。通常でもペルーでは納期は有ってないようなもので、 発注した物が何時出来上がるか分からないのが実情である。 私はFAMIAに行って彼に直接実情を訴えた。「何とか急いで作ってもらえないか。」 話を聞いた彼はすぐに工場長を呼んだ。 「今何の仕事をしている?」
「・・・の仕事です」と工場長は答えた。 アルトゥロは言った。「その仕事はいいから、セニョール高山の仕事を始めなさい」 アミーゴの仕事を最優先してくれたのである。

ペルーには次の諺がある。
「Hoy para ti, Manana para mi.」今日はお前のために、明日は俺のために!


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